第93話   釣を考える・・・   平成16年04月11日  

改めて釣とは・・・等と考えた事はなかった。

或る人曰く「人間の狩猟本能である」。確かにそうかも知れない。しかし、皆が皆釣をしているかと云えばそうでもない。だから正確には一部正しいと思う。人間は動物と違い本能だけでは、考えにくい何かがあると思えるのである。

釣り人は「他の人より多く釣りたい、大きいのを釣りたい」これは本能である。ただ漫然と釣をするだけではなく、精神の高揚と明日への活力が得られることも度々ある。単に「釣れる、釣れないだけではない」と云う事である。とは云え、釣に没頭するあまり体を壊したり、生活が成り立たないでは又これも困る。

江戸、明治の昔から文人の釣では魚の大小、多少を問わないと云う人が大勢居たようだ。得てして文人の釣は時として釣糸を垂れ、自然の中に我が身を置き自分が自分に酔うが如くの気分に浸り、気分爽快に思う釣であるとした釣が多かったようだ。また、釣の最中に芸の工夫やアイデアを考える場であるという人もいた。その様な釣は凡人である私には中々出来ない。

ただ大物のみを追い掛け回している釣もあるかと思えば、釣れるものなら何でも釣ってやろうという釣りそして釣った魚を食べないで捨てて行くという釣もあるかと、思えば釣り上げた魚をスポーツフィッシングと称しリリースして帰る人も居る。正に千差万別である。釣には様々な形態があってもしかるべきとは思う。釣り人にとっての釣は楽しいものだ。理由と問われるとその理由は分からないので、理由はないが「釣はなんと云っても楽しいから」といつも答えるしかない。それでも目的の魚が釣れないと面白くない時も多々ある。ところが数日立つと不思議な物で又行きたくなる。釣れれば釣れたで又行きたくなる。麻薬中毒患者やタバコと同じのようなもので止めるに止める事が出来ない、それが釣である。しかしながら釣師にとって一番大事なのは家庭、次に仕事で三番目に釣が大事であらねばならない。釣が家庭、仕事に優先するようでは釣師として失格である。昔は隠居の老人、お金持ちの暇人そして退職後釣り人の釣が多かった。それが最近では、レクレーションとしては元よりスポーツの一つとして考えられてきているので、若者釣師が急増している。そんな訳で生活が安定してきた50歳台以上の次に低年齢層(2030歳台)の釣人口が多いという統計もあるそうだ。

釣の上手下手はさておいて、魚釣りを趣味とする者は何かと理由をつけては釣に行く。そんな大事な釣を、出来れば一週56日働いて休日の一日位は、明日への活力が生まれるような楽しい釣をしたいものである。そして子々孫々までいつまでも釣りが出来る様に自然を、そして魚を大事にして行きたいものだと考える今日この頃である。